見ている方向

into-the-sky2008-02-06

 今夜は10時過ぎに帰宅。すでに家の前の道、車や家の屋根の上は、白くなって雪が積もりだしている。膝の高さまで残っている道端のかき上げられた残雪の上にも、新しい白いカバーが掛けられ始めていた。この前の雪は、屋根にも歩道にも芝生にも沢山残っている。

 雪がやんだ月曜日の朝は、出勤前にデジカメを持って例の広場に写真を撮りに行った。前夜の、ほぼそのままの状態を保っていた。積もった雪に口から息を吹くと、粉雪が飛び散った。横からの朝陽にあたり、ダイヤモンドダストのように光り輝いて見えた。木の枝からも、風に飛ばされた雪の結晶が、降ってくる。残念ながら、それを写真に収めることはできない。いや、正しくいうと、撮影することはできるが、情感に深く関わるような出来事を、デジカメでは記録する術がない、ということか。ありのままを記録したり表現したり、あるいはそれを伝えることなぞ、できる筈もない。そのまえに、みずからが、すべてを見るということさえ、不可能に近いわけである。
 汚いものを、雪が地上に含み落としたように、空気の透明度も高かった。白く濁していたものは、目前の白い雪へと姿を変えたのだろう。濃く青い空の下に、雪を冠った西方の山脈が、叫びたくなるほど華麗に、浮かび上がっていた。もう、こうなると、何時間でも、ゆっくりと眺めていたいな、と思う。何かを避けるのでも無理をするのでもなく、ごく自然にそのようなことが許される環境を、早く作り上げたいなと思う、瞬間でもある。
 
 仕事と言われているもののほとんどは、人に向けて思考することだし、それに関わる出力をすることだ。つまり、それぞれの仕事の向かう先には、常に人がいる。けれど、それへの過程に、直接、人が見えない動作も伴うし、人を見ないスタンスであっても、表面的には支障をきたさない場合もある。けれども、最終的に帰着させるべき“人”の存在が忘れられていき、それが希薄になると、本来の目的に対する過程であるはずの、“まとまった流れ”というものは、個々に分散した作業の1つでしかなくなる。そこでは、相対的にルーチンワークに価値がおかれることになり、それ自体が目的になり、ノルマがかけられたりする。
 第一義的な目的が見えなくなれば、モチベーションという名の個々の方向も変わる。そこに意思統一という発想が生まれ、それを達成するために議論の場が設けられたりする。もの凄く、非効率な時間だ、と思う。
 議論を否定しているのではない。けれど、まずは、少なくとも同じ方向を見ている、という環境は整えるべきだ。ただし、ほとんどの場合、方向や目的は多数の長時間に及ぶ議論によって生まれるものではなく、頂きに立つたった1人の人間の、挙手によるものだ、とは思うが、いかがだろうか。
(写真は、月曜日の朝)