梱包と、厚みとデータと段ボール

into-the-sky2007-12-21

 さて、今年の仕事は今日で終わり。いつもと何かが違う、なんてことも特になし。前にも同じようなことを書きましたけれど、年を越す、というよりかは、年間で最も長期の休暇に入ることが、1つのポイントにはなっていて、まあ必然的に、句点のような区切りができるのです。この仕事、休みらしい休みは正月と黄金瞬間しかないというと、意外に思われることが多いんだよなあ。まあ仕方ないでしょうか。一年中忙しいと思われるよりかは、断然快活錬磨で幸福助長で心身安堵であります(若干意味不明か)。

 このような日記みたいな駄文ブログを書いていると、きっと1年を振り返るなんて、やろうと思えば容易なのでしょうが、そんなことはしやしない。むしろ、振り返らなくても済むように、記録して書いている、という方が正しいと思いますね。少なくとも、持ち抱えていては、簡単に水に流せないわけです。ある程度の量で梱包して、浜辺に道しるべのように置いてくれば、時折訪れる波でさらわれてなくなるし、風で飛ばされるなんてことも起こりうるしね。
 「過去があるから今がある」というのは常套句ですけれど、今の一瞬以外はすべて過去になるわけで、当たり前といえば当たり前だし、「今があるから過去もある」なんていうのも、それなりに的を射ているような気も。「経験を重ねると、人間の厚みを増す」なんて言われると、何だか、吹き溜まったホコリのように感じなくもないよなあ・・・。やたらと、経験経験と主張する大人には、「厚みとは何か?」と、返してあげましょう<若者達。
 厚みとは、ほとんどの場合、結果から導き得る、過去のデータです。普遍的でない、人の心情や知性に直接及ぶものではありません。抽象ではなく具体だし、もちろん、その厚みが人の価値を決めるものでもありません。データの蓄積が悪いのではないですよ。それをどのように使うか、が問われるのであって、そこに本意の能力が必要になると思いますね。 巧みな分析ができる、そんな能力を持っている人は、データにはそれほど依存しない。想像力と客観性で、カバーできるからです。そのカバーが厚いかどうかが、人の価値を決める厚みになるのでは? ・・・と、反論されるような決めつけをしておきましょう。しかし話が逸れたなあ(しみじみ)。

 BOSEのスピーカが届きました。明日、ゆっくりMacintoshと繋げましょう(わくわく)。ネットでの買い物は探す手間も省けて、とても便利なのですが、かなりオーバーに梱包されているし、段ボールが増えて、ちょっぴり憂鬱。次に同じショップで買い物をすると、配送と同時に段ボールを引き取るサービスなんていうのがあっても宜しいでしょう。というか、この時代にそれをしないのが不思議。生協の配達は、専用のケースを使って、かなり昔からやっているみたいだしね。だいたい、ネットの買い物で、何をどこで頼んでも、大抵はクロネコか飛脚が、加えたり背負ったりして持ってきてくれるわけですから、簡単にできそうだ、と思うけれど・・・。