本当のディスカッション?

into-the-sky2007-12-08

 ディスカッションの場がない、という意見は、どの企業や組織でも聞かれる言葉でしょうか。そのような認識を持つ所以には、比較相対的な要素があるのだと思うのですが、それでは、他の組織の内情をどれほど知っているのか、というと少々疑問に感じるわけです。どのようにして、他の組織のディスカッションの様な場面を見たり知ったりすることになるのか、というと、やはりテレビの影響が大きいのかな、と推測されますね。ディスカッションをやる側は、テレビの取材が入るから、という意識が働いているのですから、つまり完全なるテレビ用。真の意見など、そのような場面には出てこないだろうと想像できます。僕は、実際に取材の現場にも、取材側の立場として居たことがあって、本意のドキュメンタリとは違う、ということを認識しましたね(他人事)。まあ、そりゃそうなるし、そうせざるを得ないだろうな、とね。
 意見どうしのぶつかり合いとか切磋琢磨っていうと、“プロジェクト・・・”が連想されるのだけれど、それも、つまりはそのようなケースを探して企画と取材をしているのですから、ディスカッションの象徴として際立つものではないでしょう。
 と、考えると、一般的に容易に想像するような、大勢が積極的にポジティブな意見を言い合うディスカッションは、どの程度あるのか、ということも疑問ですね。本当に、あの素晴らしいディスカッションが可能なのかと。
 必要であれば、2人でも数人でも、常にそれは行われている、これ、当たり前なのです。大きなタイトルを掲げるまでもないのでしょう。だって、部署や業務内容が違ったら、大げさに言えば定義や価値観、考える材料に対する観察眼も異なるわけですから、大勢でとは、土台からして無理な話でありましょう。むしろ、そんなに頻繁に大きなタイトルで議論をしなくてはいけない組織というのは、危険というか既に存在として終わっていて、最後の足掻きのような気も・・・。
 
 他の意見、他のスタッフの思惑というものは、想像し推測しながら仕事は進めるものでしょう。これ、至極当然です。ただ、時としてそれが間違っている場合もあるし、何らかの要因で従来とは違うスタンスになることもあるから、何らかのタイミングで正す必要があるのです。ただそれは、議論とか正負とかそういうことではなくて、認識し合うとか確認し合う、という動作に近いですね。
 さらに、ありていに言えば、議論の根本には、今を変えるという意識があってしかるべきで、現状の説明に終始したり、愚痴の発表の場であるべきではない筈。けれども、しかし、残念ながら、「議論がない、そのような場がない」と騒いでいる人の中に、「自分の愚痴を言える場がない」という嘆きが根底にある、と散見されることもあって、それはいかがなものか、と思うのです。