情報は溢れていない

into-the-sky2007-06-13

 乾燥していて暑い。週間予報を見ると、当分、雨と曇りだから、梅雨前最後の天候だろう。一年で、最も気持ちの良い日々も、終わりか。家の外では、今年も、両親の家の電話機の呼び出し音と、同じ鳥の声が聞こえる。「電話の音と聞き分けができない」と、親がおっしゃっていた。昨年に比べると、沢山の電話機から、毎日のように呼び出し音が聞こえてくる。何という鳥の声なのかは、解らない。

 山や公園、そして家の周囲を散歩していて思うことは、目に入り、気になる鳥や花があっても、その名前は簡単に調べられないですよね。インターネットの発達と共に、随分といろいろなことが調べやすい時代になったから、相対的にそれらを不便だと感じてしまうのです。花は、デジカメで撮影して後で見比べれば、何となくは解るけれど、色や形が同じでも、大きさが違うことによって名前が異なったりするので、断定的でない。鳥に関しては、声だけ聞こえて姿が見えないと、調べようがない。もちろん、鳥や花に何らかの執着があるわけではないし、気になったときだけ、知りたいと思うだけなんですけれど。うーん、所詮、その程度の興味しかない、ということでありましょう。

 情報化社会と言われ始めて久しい。世の中は、もうすっかりネット社会であります。「情報が溢れている」だなんて言葉が常套句になっていて、たとえば、検索エンジンによってヒットする数は、当初よりも明らかに増えているのです。しかし、そこから得られる情報は、そのことによる価値は、減ってきている。たとえば、あるキーワードに関する説明は、沢山のサイトに載っているのですが、試しに読んでみても、言葉遣いや表現がほとんど同じ、いや、まったく同じものも少なくありません。つまり、コピー&ペーストなのです。
 3年前、ブログを始めたとき、検索エンジンで調べようとしてもなかったので、専門書を買って調べて、掲載したのです。で、今、それと同じ言葉を入力すると、僕の書いたものと思われる文章が、沢山のさまざまサイトに載せられていて、それが沢山ヒットするのです。あえて一般的でない造語を使って書いたものがそのまま使用されているので、そのような推測が成り立つのです。あと、僕の癖で、読点が多い、ということでも、何となくそのような匂いを感じるわけです。いや、しかし、悪くないですよ。お互いさま、という部分もあり、むしろ、必然的なことでしょう。つまり、品物の種類は増えていないけれど、同じ商品の陳列数が増えた、ということですね。
 “量”というものは、常に相対的なもので、20年ぐらい前の、いわゆる商店街でも不自由はしなかったし、小さな本屋でも雑貨屋でも、不満なく利用していたのです。けれど、大型店舗が出現し、その数が増えると、比べて小さく品揃えが少ない店を、不便だと思うようになる。限界はあるのでしょうが、常に相対的に、“狭い”より“広い”を選ぶし、“少ない”より“多い”を重宝するのです。まあ、これが、人間の性(さが)ということでしょうか。やはりこれも必然です。情報に関しても、ほぼ同じ道理で、以前からも情報自体は決して少なくはなかった。けれども、その情報までの距離が短くなって、見えにくかったものや調べづらかったものが、見やすくなり調べやすくなった、ということですね。必要なものだけを近づけるという作業から、目の前に沢山あるものの中から、必要なものを探す、という作業に切り替わったのです。これで散見できることは、量の多少ではなく、必要かどうか。不必要なものが増えれば、総量的に、価値が下がる、というわけです。
 こんなことを考えていて、僕は、調べものをするときは、個人のサイトはほとんど見ません。見ても、情報百科事典系の某サイト。その情報自体も、100パーセントは信用していません。あとは、大学・研究機関や、企業が掲出している情報ですね。そのようなフィルターをかけていると、ちょうど良い。沢山の中から、必要なものが、浮き出て見えます。だから、この駄文ブログも、内容を鵜呑みにしてはいけません(そんな人いないか)。だいたい、そもそも、ありていにいえば、たぶん、ここの内容は、すべてフィクションだしね(笑)。