失速気味が良い

into-the-sky2007-05-30

 今朝は、やや生暖かい、ゆるい天候。神奈川の方では雨が降っていたようだが、自宅の周辺は晴れ間も出て、日が射していた。出勤した都心部は、昼頃から雨が降り出した。やはり、寒くもなく蒸し暑さもないし、風も弱い。消極的な雨雲は、去り方も消極的だから、回復も遅れそう。梅雨の時期も、近づいている。

 陽に焼けて赤くなった顔や腕は、すでに黒く落ち着いてきた。今年の夏は、できるだけ白く過ごそうと、淡々と予定していたのだが、残念な結果に終わった。喉の痛みは、徐々に回復してきた。今、仕事やその周囲や自分自身について、いろいろと考えていることが多い。これはもちろん、悩みでも不満でもない。雑然とした部屋の中のように、方々にやりかけのものが散在し、1つずつ片付けるということもしない、そんな様子に近い。これを格好良く“マルチタスク”と言えるか。たぶん、言えないな。若干のブラインドモードみたいだ。


 昨夜、ある人達と長時間いろいろな話をしていたら、「“文化”ってなんだろう」という流れになった。言葉としては、かなりメジャな部類に入るもので、方々で頻繁に使われている言葉だ。東京の、あるAMラジオ局の社名になっているほど。流れている放送内容は、まあ、極めて一般的なものではあって、とても、文化を問うものでも模索するものでもない。元々が教会から始まったからだろうか。つい最近まで、四谷にある元協会を改築した建物を使ってはいたけれど。
 そのような言葉に限って、実質的な意味を問うと、簡単には出てこない。僕は、疑問そのものよりも、文化というものは、戦後の数10年に渡っては強く、ここ10年程度は弱くなってきている、というイメージを持っている。これを一つの定義とすると、世の中の方向性や、人の見ているもの、という言葉で置き換わるものだろうと思う。“今の若者文化”なんて言い方もするわけで、それは主に、その世代の志向を示す言葉だから、やはり、およそ、そのような道理で間違いないと考えられる。
 戦後、“アメリカに追いつけ追い越せ”という言葉が、常套句のように頻繁に登場する社会の中で、文字通りそれを目標にして進んできた。経済的なある部分では、その通りになったし、社会は全体として裕福になり、人々の暮らしも随分と豊かになった。すると、その流れのスピードは、勢いを失い、方向も定まらなくなった。高低差の少ない平野部を通る河川のように、大きく蛇行したり、分流したり、また、場所によっては流れが滞り沼地になるように、それまでの目的意識は、弱くなり、形も変わった。そのような一過程にいわゆるバブル経済やその崩壊があり、源流からの供給も一時は減り、一段とスローペースになった社会は、我々に“個人主義”という言葉を強調した。概ね、そのような傾向に現在があると、散見されるわけである。断っておくが、今のこれらが、悪いと言っているわけではない。
 進む勢い、というか、一同が同じ方向に進むことで、周囲から観察される固まりではなく、個々の主張を軸として支えられるドームのような静的な固まりになっているのか。それは、文字通り、“虚勢を張る”ようなものだろう。けれど、そのカバーの下で、比較的自由に動き回り、たとえば金儲けへの奔走を始めると、打たれる杭のように、マスコミに騒がれ、様々を暴露され、社会から排他される。欧米では平常に行われている企業買収が、日本ではあたかもそれが否定されるように、失速を余儀なくされるわけである。
 大国を常に意識しそれを維持するように、他の国に影響を与えているアメリカの主義やその固まりが文化だとすると、日本はそれに追従するような文化そのものが、受け入れられない。少なくとも、今のところ、何を目指し、何を文化の定義にするのか、と推測しても、「美しい国」みたいな、もっぱら個人の主観であって、かつ、全体としてはかなり抽象的な言葉が、提示される。いや、この主張のなさが、文化だと言われれば、まあ、確かに・・・、と思わなくもない。
 ただ、今の時代のような、失速気味の状態の方が、周囲をより良く観察できるし、違う方向へも進み易い。これは多分、大多数の人が感じている一般論だろうから、そのうち、何らかの、形になって見えてくるに違いない。以前のディティールが強い文化は、ならないだろうけれども。