その“後”にあるもの

into-the-sky2007-05-25

 今日も、朝から晴れ。日曜日から続いているせいか、空気は次第にあたたまり、透明度も下がってきた。夏の渇水に向けて、今年はラニーニャ現象が起こる、ということをようやくどこかから聞き出したのだろうか、小雪・少雨と併せて早々とマスコミが騒ぎ出している。学校で新しく習った言葉を、自慢するように、兄弟や親に何度も話す子供のように。ちなみに、ラニーニャは、猛暑と同時に、多雨・豪雨をもたらすもので、夏の少雨や渇水と直接は結びつかないのだが。まあ、梅雨に入るまでは、騒がれ続けるだろう。

 今週に入り、職場の建物のワンフロアのほとんどを使用して、ドラマかバラエティ番組の撮影をしている。着飾った女性達が大勢出入りしていて、何とも、一種威容な光景。“安田??”という名の有名人も来ているようだ。僕は例によって、まったく誰なのか解らないし、他の女性と区別もつかない。係りの人は、来週の初めぐらいまで撮影が続くと言っていた。向かって右の方の放送局で放送されるらしい。僕が見ることは、ないだろう。
 
 僕は、以前から、仕事かどうかに関わらず、幾度となくテレビ番組などのロケーションの現場に足を運んでいる。最近、見ていて特に感じていることは、ロケ場所の周囲の住民や通行人などの一般の人の反応だ。以前は、何の番組のロケをしていようとも、どんなキャストがいようといまいと、テレビカメラと少々の機材があるだけでも、すぐに人が寄ってきて、ギャラリーの方々で黒山の人だかりになっていた。撮影の準備をしているだけでも、沢山ギャラリーはいたし、知名度が高くないキャストが一人たたずむような比較的地味なシチュエーションでも、それは変わらなかった。
 けれど、今は、大掛かりな照明の機材があったり、いかにもスタッフという感じの人が右往左往していたりしていても、通りがかりの人たちは、横目で一瞬見るだけで、そのまま早々に通り過ぎる。さすがに知名度の高いキャストのドラマロケだと、それなりに人は集まってくるけれど、以前の、あの興味津々という表情で、見ていく人はやはり少なく、知名度の高いキャストがいないと、やや迷惑そうな顔をして、淡々としていることも、少なくない。せいぜい、少し離れたところに行き、黙ってケータイのカメラで撮影するぐらいだろうか。“メディア慣れ”、というか、“メディアずれ”してきていることは、明白である。
 もちろん、昔のドラマに比べると、屋外でのロケーションによる撮影が増えたから、見慣れているということもあるだろう。しかし、それだけではない。今となっては、誰もが必ず見るような影響力の大きいテレビだから、と、単純に歓迎したりもてはやしたりはしなくなった。テレビやメディアを取り巻く環境に対して、以前と比べて、違う認識を持つようになったからだ。それは、本来の楽しみ方を知った、ということでもあり、その一方では、クールであり、かつシビアな視線に変わった、ということでもある。

 カラー放送になったころのテレビは、まだ、画面サイズこそ小さかったものの、デザインは、豪華な装飾が施された家具調だったし、見ていないときは、立派な刺しゅうのカバーがかけられたり、上には、高価な時計も置かれていたりした。そう、扉つきのものまであった。まるで、仏壇のような存在だった。今は、液晶テレビになり、薄いものになった。デザインはシンプルなものがほとんどであり、存在感は、大きな画面以外にはない。しかも、各部屋に1台あるような時代だから、昔のそれとは、かなり異とする存在になっている。もう、かつての“威厳”は、ない。もはや、テレビというメディアを他と比べて、比較的高い位置に崇め奉る(あがめたてまつる)存在ではない。ロケ現場で観察される様子も、それらを象徴している、ということなのだろう。

 頻繁に利用する明大前駅の近くに、昨日、鉄道会社が運営する駅ビルが開店していた。沢山の人、沢山の関係者、沢山のロビー花が、開店の華やかさを強調していた。最初、集まっては、後に廃れる。そのような光景は、あちらこちらで、目にするわけではあるのだけれど・・・。