撮る道具、見せるリアリティ

into-the-sky2007-03-21

 依然として寒いが、昨日までの厳しさはない。朝の気温も四日ぶりにマイナスが取れた。寒さのうちに花粉もだいぶ減ってきたようだ。むず痒かった鼻も、元に戻っている。空気の透明度も高く、先週からずっと遠くの山脈が見えている。今回の一連の、透き通る風も堅い寒さも、今日ぐらいまでだろうか。



 僕は、撮影に、二年前に購入したペンタックス社製のデジタルカメラを使っている。前の機種も同じメーカーの古い型式のものだった。ある雪の日、喜びに沸きながら歩いていたら、ハシャギ過ぎて自分よりも前にデジカメを落としてしまった。積もっている雪の中に落ちたそれに気がつかず、前に進んだら、思い切り踏んでしまった。見事なまでに潰れていたので、笑いが込み上げて来た。次の日に即、新しいデジカメを購入。今も使っている。前置きが長くなったけれど、特にメーカーも型式も、拘りはない。
 被写体に関しても、特に拘りはなく撮影していたつもりだったが、写真を一覧すると、いわゆる“光りもの”が比較的やや多く撮られていることに気がついた。それが昨年の暮れのこと。「あ、そういうことだったんだ」と後で、他人事のように認識したわけである。その後も、特に意識することなく撮影しているけれど、やはりその傾向は変わらない。撮影とは、見ているものを切り取ることだから、光を見ていることが多い、ということだろう。蛍光灯や電球によってくる、虫のようなものか。

 写真撮影の愛好家で、スチール(銀塩)撮影に拘る人がいる。僕は、スチールカメラだろうがデジタルカメラだろうが、拘りは一切持たないから、そのような意見自体は否定しない。好みの問題だろう。しかし、短絡的に、スチールカメラに比べてデジタルカメラによる写真が劣るから駄目だ、とする考えには、懐疑的である。
 確かに、画素数が少ない頃のデジタルカメラは、見ていて悲しくなるものがあった。スチールカメラの写真とは雲泥の差があったし、画素数と結びつく解像度は、色再現にも影響するので、違うものに見えるほど、拙いものだった。けれども、今は、そのようなことはない。僕は、最初に購入したデジカメの80万画素から120・200・400・500万画素のカメラを使ってきたが、400万画素のカメラで撮影したものを画面で見たり、当時の最新のプリンタでアウトプットをしたりすると、分解能的に、スチール写真との違いはほとんど解らかった。PCの画面サイズや、一般的なL判サイズで見る場合、ほとんど遜色はなくなったと思う。
 同じ一つの被写体で、デジタルカメラとスチールカメラの写真を比べて、「再現が違う」と、主張している人がいるけれど、比較して差異が生じるのは当然である。まず、レンズによって違うし、フィルムによって違うし露出によって違う。つまり、デジタルかどうかに関係なく、違いは山ほどある。そもそも、写真に対して、同じ被写体を同アングル同サイズで撮影したものを比べる、という見方はレアケースだ。撮影者はその一枚に何を主張するのかであり、見る側の人間は何を感じられるのか、である。店頭の性能比較説明ではない。
 カメラは道具である。スチールカメラもデジタルカメラも、一つの道具に過ぎない。道具はその目的や性能によって、多種多様なものがある。優れた道具を使えば、良いものができる。これは間違いない。けれども、“もの”でなく“表現”である写真においては、良さの定義は人によって異なるのだから、道具の選択は見る人に直接関係するものではない。
 どんな道具であれ、撮ろうとすれば撮れるし、伝えようとすれば伝わる、と僕は思う。もはや、その足を引っ張るほど、デジタルカメラの性能は、悪くない。今はまだ、たとえばポスターぐらいの大きな写真には、明らかにスチールカメラによる撮影が適しているけれど、出力の大きさに左右する画素数は、今後さらに増えるから、やがてその差もなくなるだろう。
 リアリティを追求するのは、至極、当然なことだ。しかし、そうであるならば、自分がその場に足を運び、肉眼で見た方が早いし、それには絶対勝らないだろう、と、僕は思う。記録し残すことを一義的に考えるのであれば、両者とも大差ないと、考えるが。いかがだろうか。
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