覆いかぶされ乖離しない

into-the-sky2007-02-26

  快晴で、冷たい風も弱いが、昨日よりは暖かい一日だった。陰も幾分短くなってきて、日差しは強まりだしている。
 とてもかくても、夕焼けが綺麗だった。思わず万歳をしたくなる。実際にしたけれども。

 自宅から歩いて1分ほどの散歩道の両側には、盛り上がった土が沢山ある。今年はモグラも元気が良さそうである。何度となく通るその道で、できたての土盛りを見ては、もう少し早くここに来ていれば、盛り上がるのが見られたかもしれない、といつも思う。どこかの何かのアニメのように、土から顔を出すモグラが見ていたいのだけれど、この希望はいまだに実現されていない。目が見えないモグラは極かすかな振動に対しても敏感だから、近くで人の気配がするだけで、出てきてくれないのだろうか。

 人間は、自ら持つ力や感覚の範疇で、自由も効き、目的も達成できると思っている生き物である。けれども、人間よりも感覚が鋭かったり、能力を持っているものに対しては、無力に近い。これもまた、どこかの何かのアニメ映画で、動物が人間の無能さをあざ笑うようなシーンを目にすることがあるが、それは決して誇張でも不事実でもなく、意外とごく当たり前のことなのかもしれないのだ。人間と、互いにある程度の意識を理解でき、それなりのコミュニケーションがとれるのは、たぶん、飼っている犬ぐらいだろうか。僕は犬と暮らしたことはまだないが、それをしている人の話によれば、だいたい何を考えているのかが、解るという。もしかして、心情をさぐり、上手く接してあげようと試みているのは、人間ではなく、むしろ、犬さまの方かも知れない。まさに動物的直感であり、本能のたまものである。

 人は、進化の過程で、視覚も聴覚も嗅覚も、かなり捨ててきたようだ。もっと、見ることができて、もっと聞くことができる動物は、沢山いるわけである。一方、人間は、本能としての感覚を減らして、代わりに、“考える”という能力が備わっている。考えるという動作が理性に結びつき、動物としての本能とそれ自身を、表面的に乖離させる。けれども、どうしても、理性だけでは説明が難しい本能の部分は、消えず、むしろ強く残っているわけだから、面倒なことになる。しかも、両者は横並びで、あるいは、天秤に釣り合っているわけでもない。本能の上に理性が覆い被さっているように存在しているわけであって、どちらも自由が利かず、束縛し合っているといっても、間違いではない。
 本能に導かれる、感覚というものは、すべて、事実に対して働くものであり、実際にあるから見えて、実際に振動しているから聞こえるのである。それに対して、考えるということは、見えないもの、聞こえないものに対する、想像であり予測である。観察し散見される本能に基づく実測値、あるいは、今までの経験に基づく過去と照らし合わせながら、なんとか、無形なものを少しでも形あるものに変えようとする、動作である。その結果、多分こうではないか、おそらくこう思っているのではないかと、物や人に対して、何らかの解釈を作り出して行くわけである。
 この解釈に自信というものが加わると、途端に一人歩きが始まる。本来であれば、散見し想像される中の一つに過ぎないはずのものが、断定的になり、決めつけへと向かう。さらに、理性においての“考える”という動作には、考える本人の“本能”による“希望的推測”が大きく強く絡み合っているので、客観的視点でなくなる。いわば、入り込み過ぎて周囲が見えていない状態になり、何でも、都合良く解釈するようになるし、悲観的な解釈にもなる。

 昔と違って、比較的ゆっくりと流れる時間の中では、当然、急ぐ必要も焦る必要もなくなった。そこで生まれた頭の中の余裕は、直感的な本能より、考え想像するという理性に、志向を傾けた。僕は、このことを否定しないし、ただ単純に、必然であると思う以外に他意はない。けれども、しかし、明確な境界条件も持たず、実質的には、乖離(かいり)することのない本能や理性の存在を忘れて、他人本位的な振る舞いをしても、自ら解釈できないジレンマに陥る可能性が高くなるだけで、結果的に、面倒を作り起こしているだけだという、やや悲しい状況になってしまうのだろう。
 そう考えると、我々が、自然と無頓着になり必要に感じなくなった本能的感覚を、改めて研ぎ澄ますことも、大事だと思うわけで、それらの事実だけに多く反応するような、より本能的な“自分勝手な生き方”というものも、悪くはないな、と、思うわけである。