機械は失言しない

into-the-sky2007-02-11

 昨夜は一時的に激しい雨が降った。用事があり、車を運転していたら、いきなり豪雨のような激しさになった。大きな音を立てて、前が見えないぐらいになった。時速を60キロぐらいに落としていたにも関わらず、一瞬のできごとだった。おそらく、半径100メートルにも満たない、超極地的な大雨だったのだろう。これだから、天気は面白い。「やめられない、とまらない」だ。もう完全に冬の雨ではない。今日は、ゆっくりと落ち着いた晴れ。外で、鳥が遊んでいる。


 ある大臣のコメントで、騒がれているようだ。具体的に誰が何を言ったかも、いきさつも、知らない。他の国会議員やマスコミも、ここぞとばかりに追及しているようだ。いわゆる失言に対する執拗な追求やそれによる失脚も昔から繰り返されているようだけれど、僕はどうも釈然としない。失言とは、認識は意識のズレによるものだ。 
 たとえば、誰もが「綺麗」とか「美しい」と言う自然の風景を見て、「汚い」と言う人がいる。それを周囲に話した途端に、「この人は非常識だ」と、その人に対する偏見が始まるし、子供がそのように言ったら、親は「そんなことないでしょ?どうしてそう言うの」と、怒るだろう。一般的にはこうだからとか、みんながそう思うだろうからとか、自分がこう思うから、などという理由で、「そう思いなさい」「なんでそう思わないの?」と、ものの感じ方を押し付けることは、短絡さを感じるし、品がないとも思う。

 今回の一件は、どうやら「機械」という言葉に反応したものだろうが、僕は、機械が悪者だとは思わない。人間のように意志を持たないものがほとんどだから、面倒に思って、作業を先送りすることもないし、人間によって、正確に設計され設定されれば、ミスもほとんどない。人間のように気分に左右されないし、文句も言わず、極めて正確にさまざまなルーチンをこなす。こう書くと、これが、書いている僕の総論であり、価値観と捉えられるだろうが、そうではない。根本的に、「人と機械は比べられない」というのが、第一義的な本音である。けれども、僕の中では、どちらも思い考えていることには変わりない。つまり、見方の違いだし、出力の方向が違うというだけの話であって、両方の解釈ができるというものに過ぎない。

 見方や言い方というのは、その場所によって変わる。いつでもどこでも、常に同じことを主張し続けることの方が、僕は難しいと思う。そのような状況の中で、適切でない言葉を出したり、後になって考えれば、良くなかったと思ったりすることは、いくらでもあるだろう。それこそ、人間は機械のように常に一定でなく、時に感情的になるからだ。つまり、失言は誰でもするだろう、ということ。
 いわゆる政治家が発言したことだから、影響力はもちろん違う。それを考えれば、失言は極力さけるべきだ、とも思う。また、その政治家の政策が、その失言の言葉通りに、一般的に受け入れられるものでないのだとしたら、攻撃されて当然かもしれない。けれども、しかし、“単に、その場でそう言っただけ”であるのだったら、それは、過剰反応以外の何ものでもないし、単純に“粗探し”の対象に“引っかかった”というだけのように感じられる。認識や価値観という、大げさな話とは到底思えないのだ。

 さあ、初心に返り、量を減らそう。1303文字。