想像された殺人

into-the-sky2007-02-01

 朝からしばらく晴れていたが、少し曇って再び晴れた後、風が出てきた。空気の入れ替わりが始まっている。この後は寒くなりそうだ。マスコミは方々で、暖冬であることに騒ぎだした。今年の冬は早々に暖冬傾向だったから、タイミングとしては少々遅かったか。テレビでは、眉間にシワを寄せて深刻な表情をしても、その数分後のキャスターの顔は、芸能ネタと共に、一瞬にして緩む。同列の、同じ程度の“ネタ”の一つだと認識している、ように見える。まあ、テレビらしくて、そう悪くもなく、可笑しくも悲しくも、当然の姿だ。


 何か凄惨な事件が起きると、「想像力の欠如だ」「常軌を逸している」とする人が多い。僕はむしろ、その逆だと思う。妹を殺してバラバラにしてしまった悲惨な事件は、この典型だ。先に断っておくが、さまざまな事件の犯人やその行動を、正当化し擁護しようという気はまったくない。同情もしない。命を奪うということは、断じて許されない行為だ。言うまでもないが。
 この事件の容疑者は、これをしたらどうなるのかという“事の顛末”は十二分に想像している。もしや、普通の人よりも、想像する力が高かったのではないかと、思えるほどである。極めて、冷静に普通に犯行が行われている。報道されていることが事実ならば、一つ一つがまるで、あらかじめ書かれた台本のように動作している、計画的な犯行だからだ。
 計画というものは、そもそも想像力がないと立てられない。想像した上でそれだけで解決できない事柄が存在すれば、それを調べるということで、それが、より現実性を帯びたものになり、やがて実効性が高い計画が決まる。その時点で、表面的には、以後が未知数だと言ったり思ったりしても、ほとんどの場合、想像し計画を立てた時点で、おそらくこうなるだろうと、“確率の高さ”というもので、十分に予想できる。だから、計画通りになるかどうかや、あるいはその達成度は、事前に計画したことを自分がするかどうか、といういわば行動力が決める。つまり、結果が計画通りにならなかったとしたら、外的要因が関わらない限り、当初想像した通りにならなかった、のではなく、想像していたように計画を実行しなかった、という場合が、ほとんどだ。この容疑者の場合、その計画がいつ作られたものかは解らないけれど、これをしたら、こうなってしまう、だから、次はこうして、さらに・・・というように、緻密に想像され計画されたものだし、残念ならが、それぞれを現に実行してしまっている。あれほど、残虐で、大それたことが行われるということは、それは、冷静であり計画的でなければ、不可能である。想像力がなくては、できない。
 むしろ、想像力が足らなかった、あるいはそれを働かさなかったのは、容疑者の妹であり家族だったのではないか、と僕は思う。希望通りに、思惑通りになっていない容疑者に対して、家族はなぜ、その希望や思惑、つまり、計画の変更を促さなかったのか。いや、促したのだとしたら、なぜ本人は、それを受け入れなかったのだろうか。容疑者の情緒を察して、「今、本人にこのように指摘したら、このような態度に出るかもしれない」と、なぜ想像しなかった、いや、できなかったのだろうか。また、容疑者本人は、なぜ家庭が完全に崩壊することを望んだのだろうか。その想像や計画はなぜ止められなかったのか。それらはもちろん、周囲が知らないだけで、家族や容疑者本人の中では、それらは事前事後に関わらず、明確なものだったはずだ、とは思うが。
 マスコミは、命を奪った後の、遺体に対しての行為ばかりに反応し、なぜ、そうしたのか、ということばかりに、大げさに反応している。けれども、恐らく、本人にとっては、想像の先の目的に向かった、計画中の一つの行為に過ぎず、むしろ、本人の中では、家族だからこその行為だと考えたはずだし、特異性も感じず、必要だったからそうしたのだ、ということでしかないのではないか。自分の中で異常だと思い、想像から外れ、計画通りでなければ、その行為には及ばなかっただろう。その事だけを取り立てて重要なテーマにしたり、傍らから追求したりしても、意味は ないだろう。
 そもそも、僕自身が上に書いたことも含めて、傍観者による分析自体、意味を持たない。しかし、少なくとも、単に“想像力”だけで、解釈できる単純な事件ではないし、マスコミが大げさに騒ぐほど、“奇々怪々”な事件でもないし、容疑者は社会から逸脱するような“異常性”も持ってはいないだろうと、僕は思っているわけである。