友達

into-the-sky2006-11-12

 11日土曜日。ゴロゴロの朝だ。朝からは珍しい。一年に一度あるかないかではないか。大体は昼過ぎから夕方にかけての風物詩だ。早くからこれでは、かなり荒れそうだ。相当元気が良いのだろうか。先が思いやられる。雷の話だ。
 12日日曜日。淀んだ空気が一層され、透明度が高い。太陽光線を吸収し全体的に白く見えている、そのような空気が濁っている日に比べると、今日のような日の日陰は青い。やや専門的に言うと色温度が相対的に高い状態だ。冬場の青は、一層寒く感じさせる。


 一昨日は、一日中、ずっと話をしていたような気がする。小説3冊分ぐらいでしょうか。大したことないかも。思い出すと、今週は二日も休んでいるからなのでしょう。休みの日は人と会わない限り、喋りませんしね。前にも書きましたけれど。誰かに話をするということは、自分にとっては、かなりなエネルギを消耗するわけです。だから、休みの日も、誰かと会っていると、「頭も体も休まっていないな」と感じるのです。別に構わないのですよ。病気でもありません。会いたくないと言っているわけでもありません。一緒に居ても話をしても、疲れないのは、今のところ家族だけでしょうか。そこには家族のような間柄の人も含まれます。
 その話しすぎの影響か、今日は体調が悪い。まあ、でも、一日黙っていれば、すぐに治るでしょう。ただの風邪だったりして。でも、今日は15年来の友人が職場に訪れるので、話に傘が咲くでしょう(笑)。外は雨です。


 友達と言えば、私は、友達の存在を強く意識したことはないのです。子供の頃は友達とよく遊びました。でも、一人では無理な遊びを、友達としていたに過ぎません。一人か二人だったでしょうか。一人で遊べることは一人で遊んでいました。小学校の頃は、同じクラスの子といろいろ外で遊んでいましたけれど、それは、クラスの中で一緒にいたくないとは思わない人と思う程度で、友達という間柄ではありませんでした。誕生日会にも行ったことはないし、誰かを呼んだこともありません。誰それが、6人ぐらいで誕生会をして・・・なんて話を聞くと、子供心に、「みんな無理をしているな」と考えていました。当時から形式儀礼的なこと、つまり、“セレモニー”に関心を持っていませんでしたしね。それらの様子を見ては、「そんなに気が合う人が沢山いるの?」「本当に祝福し合っている?」と思っていたわけです。
 小学校の卒業式の後のクラス会では泣いていましたけれど、仲の良い人や少数の友達と別れるのが淋しかったのではなく、泣いている人を見て泣いた貰い泣きでした。そもそも、会えなくなるとも積極的に思いませんでしたし、会うことに意味を感じなかったからです。
 私にとっての友達の定義とは、“気心知れた仲”です。これ、一般論だとは思いますから、単に私が、その言葉の意味に徹しているというだけなのだと思いますけれど。つまり、気持ちの問題であり、心の拠り所であるとするものです。例えば、自分が何かを考えるとき、その友達だったら、それをどう思い、どう考えるだろうかと、その相手の様々を想像しながら思慮する、そのような対象であるともいえます。だから、会うとか遊ぶとか比較的表面的な動作に依存していません。極論を言えば、相手が私のことを、私自身が思うほどの友達だと思っていなくても構わないのです。これは、こうであるべきだと考えているものではなく、友達に対する想いは、この方が自然だと考えているに過ぎません。
 当然のことながら、会えなくても淋しくも悲しくもありません。それ程、自分にとって大事な友達であり、会うことが重要なのだとするならば、一つの囲まれたユニットに両者が存在しなくとも、会おうと思えばいつでも会えるでしょう。忙しくて、物理的に離れて会えなくなるというのは、その事自体を後回しにしていて、会うことの努力をしていないのでは?と思うのです。そのようなユニットから外れるということは、受動的な機会を必然的に失うというだけの話しでしょう。別れではありません。
 距離が離れていても、頻繁に会わなくとも、偶にその友達のことを想う。元気だろうか?どんな日々を送っているのだろうか?と想像する。離れては、また、近づく。人同士は遠ざかっていても、気持ち同士は揺れ、迫る。想いは、日常のそんな繰り返しでも、それを忘れ欠くことは、ない。

 友達の話、まだ、続くでしょう。