分岐点

into-the-sky2006-10-26

 昨日は、曇りのち晴れ。低気圧がゆっくり進んでいたせいか、朝は湿気が巨大な固まりのようだった。それもゆっくりと追いやられ、昼前には一面の青空。気持ち良い。二日間続いた日中の寒さからも、開放された。一時的だが。この時期はまだ、日中日差しがあると、夜帰宅しても少し暖かい。暖房は、まだ我慢。暖房をつけるかつけないかの境界は、17℃。今の自宅では、特に体を動かしていないとき、それより低くなると、寒さを意識するようになる。過去数年間のデータによるものだ(大げさである)。
 どころで、大小に関わらず、日常の生活の中で“分岐点”は沢山ある。時には軽くどちらがよいかと考えて一瞬で終わることもあれば、時に“人生の分かれ道”のように重く長い時間をかけて迷うこともある。立ち止まり考え、どちらを選択し、どちらに進むべきかと悩む。しかし、どんなに決め難く、真剣に思い悩んでも、それぞれの違いを明確にするような境界条件の違いは、実際のところほとんどない。つまり、どちらを選び進んでも、直接、それが将来を大きく左右し、その後の自分を大きく変えるような事態には繋がらないということだ。
 例えば、食後のデザートを決めるとき、どちらかにするか迷う。しかし、いずれかを選んでも、それぞれの違いはほとんど無い。共に、甘い幸せなひと時は訪れるだろうし、どちらかは食べると決めている時点で、カロリーの違いはどこかへ飛んでいく。それが食べるか食べないかの選択であっても、その摂取量が多少変わるぐらいの話しだ。なぜならば、その迷いとは、もっぱら、既にある程度の他のものを食べた後に生じるからだ。とりあえず店に入り、水だけを目の前にして、デザートだけを食べようかどうかを迷うようなことはない。ダイエットを気にしている人の中には、「いや、塵も積もれば・・・」と思うだろう。しかし、どちらかを迷っている時点で、実際の迷いの材料は半分以上既に忘れ去られていると言っていい。せいぜい、今日はどちらにしようかと思う程度だろう。
 違う例を。
 車を運転していて、右に進もうか左に進もうかと迷う。まさに分岐点であり、分かれ道だ。もちろん、両者の到達地点が完全に異なるときは、目的地が決まっている限り迷わない。迷う時は、右に進んでも左に進んでも、同じ目的地に確実に到達できる時だ。しかし、いずれを選択しても、実際は、多少走行距離や掛かる時間が変わるだけで、大した境界条件にはならない。目的地まで、左は10分、右は1時間というときは、迷わない。「一人旅で、どちらの方向に進むか迷う・・・」ということもあるだろうが、それは、単にその先に、目的地を設定していないだけの話であり、所詮どちらでも良く、どちらも大差ないと既に解っているのだ。また、天橋立に行くか松島に行くかという迷い方も同様。何のために行くのかという目的に明確な違いがないからだ。
 もう一つ。
 女性が買う洋服を決めかねている。友達に「どうしよう。決められない」と相談することがあるだろう。しかし、そのような時は、自分でどちらが良いのか、既にほとんど決まっているのだ。「私はこれが良いと決めているのだけれど、どうかな」と思うぐらいだろう。むしろ、伺いを立てているその友達に、「私が良いと思っている方を選んで」と期待していることが多いのではないか。まあ、基本的に、一緒に行く友達とは、気心知れた仲なのであり、その友達から出てくる言葉とは、往々にして期待通りのものになるのだろうけれど。

 “迷う”ということの人の情理を突き詰めていくと、「今はこれで良いと思うけれど、後でどうなるか解らない」、これらに帰着するだろうと推察される。総じて「今は良いけど、後悔するかも知れない」ということだ。
 しかし、“後”を決めるのは自分自身である。後で太ったら着られなくなると思う。・・太るかどうかは自分次第だ。後で渋滞して困るかも知れないと思う。・・間違いの大部分は自分のスタートの時間だ。つまり、今が良くて“後で”後悔するということは、どちらかに決めたその後の自分に、あるいは、それまでに至る経緯に問題があったのだと思って、間違いないだろう。

 「人生の岐路に立つ」や、「人生最大の分岐点だ」などと、ことさら大げさに表現されることが多い。しかし、その分岐点まで自分で歩んで来たのなら、分ける両者の境界条件は、一見するほど、大きくも多くもない。それを、大きく、重要だと思い悩む理由は、対外的なものに依存する姿勢が起因になり、自分以外の他の要素がこの先の自分を決めるものだと思っているからだろう。
 迷い悩むのが、悪いと言っているのではない。そんなことはいくつあろうとも、人間の賢明さを決めるものでもない。けれども、今はこちらの選択で良いと思うのであれば、その時はその選択が正しい。その後は自分次第なのだと思えば、過度に悩む事はない。

 分岐点とは将来を心配し迷う場所ではなく、今まで歩んできたそれまでの考えを決心する場所であるはずだ。