温度差

into-the-sky2006-09-14

 昨日からは、涼しいを通り越して寒い。朝は、洗面所のオイルヒーターを付けた。鏡も、曇り止めを昨日させないと、見えない。季節の移り変わりは、例えは“三寒四温”という言葉にあるように、徐々に流れゆくものとのイメージがある。だけれど、どちらかと言えば、ある一日を境にして、比較的急峻に変わることの方が多い。「急に暑くなりまして」「急に寒くなりましたね」というやりとりが、毎年、近所の人との間であるだろう。実際のメカニズム的にも、気温が徐々に変化するのではなく、二つの性質の違う空気が近接している時に、そのどちらに覆われるかで地上の気温が決まる。お互いの境界条件の度合によって、相対的に生じるその差異が、暖かいのか暑いのか、あるいは、涼しいのか寒いのかに現れる。つまり、覆われる空気の属性や偏差によって気温を感じる。属性が変われば、その時、比較的大きな気温の変化が必然的に訪れる。


 自分と他人が何かに関して主張し合うとき、意見の違いが生じる。当然よくあることだ。しかし、それが同じ環境下の人同士である場合、それらの意見は完全に相反している二つというよりかは、二つの温度差によることが多いと観察される。もちろん、それがすべてではないだろう。
 そもそも、そのような温度差の違いは、人間が二人以上集えば、まず殆どの場合必然的に存在するといってよい。そしてその温度差の違いは何かというと、方法論の違いだろう。つまり、同じ職場、すなわち同じ環境に両者が居る場合、普通の企業や団体であれば、目的論はほぼ統一されていて、個々の各々にその大枠を越えるような差異は存在しない。互いの表現方法が少し違うだけでも、その些少な違いは、話す本人の今までの経緯や履歴、話しているときの表情や、それに対する相手の受け止め方で、二倍三倍にも大きく広がる。話の趣旨となりうる出発点が互いに極めて似通っていても、ずれた認識による返答が相手の誤解を生み、それ自身がまるで一人歩きを始めるように、それらは次第に大きく分かれ遠のいていくことになるのだろう。
 しかし、その場に、その議論に参加しないもう一人の人間がいれば、その人の視点は文字通り客観であり、両者それぞれの個々の意見や主張は、全体的な集合論として定義される。二人のそれぞれの意見を自分なりに咀嚼しようというベクトルが作用した時点で、その傍らの一人は中立となる。そこで、一つ一つの言葉の持つ意味を相対的に解釈すると、両者の違いが明確になってくる。違いが明確になるということは、その違いの多少も明確になるということであり、「どうも、この二人はそう違うことを言っているように感じない」と思うメカニズムにもなる。会議や夜の飲食店で熱心な意見の出し合いも、同じ環境の第三者の出す言わば客観的な意見で、簡単に終わることが多く見られるのも、これらと同じ道理だろう。また、第三者を伴わず、客観的な意見が介在しない二人だけの議論の場合は、どちらか一方でも、単なる温度差の違いであることに気が付いた時、今までの二人の議論が収束する。
 温度差の違いは、二人以上が集まれば、当然存在する。また、その関係は定常的なものではなく、話す内容自体やその時の立場や見識、そしてその相手によって、変わるものだろう。これも当然だ。また、どんな議論であろうと、必然性を持って生まれたものは、無用なものであるとは決して言えないし、細かなシチュエーションに関係なく、どんな場であろうと、その必要性から自然と発生することが殆どだからだ。
 大事だと思うことは、相手の細かな表現の違いや言葉遣いに反応し相手の思惑を決めつけるのではなく、まず自分がどの属性であるのかを認識する。そして定義される物事に対して、自分との温度差を推察することだろう。何らかの目標に対して、互いのその温度差を解消するべきだと感じたら、せめて少々その差を減らすことができればいいと思う。その程度で十分だろう。所詮温度差など些末な問題であり、あくまでも相対的なものでしかないからだ。
 例えば、猛烈に暑いところに居ると自ら思えば、他から吹く風のほとんどは、涼しく感じられるだろうし。