中田らしさと教材

into-the-sky2006-07-08

 昨夜から今朝にかけてはここ数日中では蒸し暑かった。特に日中日射があると家の中の温度が上がると、夜遅くになっても壁や床などに放射熱が保たれている。帰宅してエアコンを作動させて冷たい風に体が当たって一時的に部屋全体が冷えたと感じても、エアコンを消すと途端に暑くなってくる。こういう日は一晩中屋内の気温が下がらず寝苦しいことが多いうえ、エアコンを付けると寒く、消すと暑いと感じることが多い。エアコンは年々消費電力が下がり省エネルギ化も進んでいるが、放射温度を加味しての総括的な温度コントロールが可能になるとありがたいなと思うのだけれど(我が家のエアコンが駄目なのかな)。


 このブログでは、あまりマスコミで取り上げられている時事的な世俗的なことは触れないようにしているが、今日は、そこをあえて変えて、中田英寿氏の話。
 サッカー選手の中田英寿氏が現役引退を表明した。私はそのニュースを見たとき、一瞬驚いたのだけれど、すぐに「やっぱりな」と思いなおした。彼の中で“プロサッカー=人生”ではないからだ。彼の引退表明の文章からもそれは明らかで、サッカーを“人生の基盤”としている。自分のいう自己表現の一つ、彼の生きる姿勢の一つがサッカーなのであり、サッカー人生の中に、自分や他や周囲の環境が存在しているのではないということだろう。サッカー選手の中田英寿なのではなく、中田英寿がサッカー選手であるのだ。つまり、表現の手段や自己存在の“糧”となるものは、彼の中で他にも存在し得るのだろうし、よってそれは永続的なものとはならない。彼の中の自分の誇示の一つであったプロサッカーの幕が閉じただけであり、次の新しい中田英寿がこれから始まるのではないかと私は期待している。
 あるISP(インターネットサービスプロバイダ)での引退についてのアンケートでは、この文章の製作時点で、まだ続けて欲しかった旨の意見が6割にも登る。もちろん、どう考えようと個人の自由だろうが、私は、彼がそのようなスタンスだからこそ、“今”引退するのであり、“今”引退するのが、彼“中田英寿”なのであり、“今”引退するという考えを自ら導き出し決意した彼が今までの“彼自身”を作ってきたのだと思う。つまり、彼故の道理ということだろう。


 ところで、彼の引退表明文を道徳教育の教材として使いたいとの発案が彼の所属事務所に沢山寄せられているそうだ。「あー、また始まったか」と思った。それはあまりにも軽佻浮薄ではなかろうか。なぜ道徳教育に彼の“様”と取り入れられるのか。不思議だ。
 そもそも、今の“道徳教育”自体に私は懐疑的ではあるけれども、それ自身を否定しているわけでもない。現状の授業を子供たちが感じてつまらないと思うだけでもそれなりの成果があるのだろうと思ってしまう。
 私は道徳教育とは、いかに抽象的な“もの”の道理を伝えるかということに趣旨をおくべきだと思う。抽象的というと具体的の反語ということもあって、何か中途半端で特に意思などを持たない、それこそ浮薄でありどっちつかずの道理だとの印象があるが、実際はそうではない。抽象とは、一般的な概念のことであり、さまざまな事象の中での道理としての共通点を指している。社会における共通概念というのは、我々の言動や思考の根底にあるものであり、一つの基準であり内生的なアベレージともいえる。つまりそれらを糧や土台として、人の“様”・・・つまりその人なりの表現方法や姿勢などの“個性”が存在するものだということだ。

次回につづく・・