あふれ出る水

into-the-sky2006-06-17

昨日は早朝から通勤時間までかなり激しい雨が降った。後でデータの履歴を調べると、私の自宅付近の東京都の某所では、午前5時前後から時間あたり20〜30ミリ前後の雨量で二時間以上も降り続いてたことが解った。通常「ザー」と音を立てて真剣に降る雨は10〜15ミリ程度。雷を伴う雨は30ミリを越えることもしばしばあるが、それが実際降り続く時間は、われわれの印象以上に意外と短いものなので、昨日の朝方の雨はかなり強くそして沢山降ったことになる。

 徒歩で自宅から駅まで向かう間、10メートル程度の盛土の構造になっているある中学校のグラウンドの角から、雨水が滝のように音を立てて大量に流れ出ていた。それは、水を満たしたバケツを持つ30人が絶え間なく下に流し続けるぐらいのものと言えば解るか。当然その下を通る歩道もまるで“川”。水位は5センチぐらいなのだけれど、下り勾配で水流が強いため、そこに足を入れると抵抗と回折の関係で、足と言うか靴全体が水に浸ることになる。
 まあ、そういうわけで、強い雨の中、それでも出来る限り「濡らさないように!」と言い聞かせ真剣に歩くことに取り組んできた(大げさ)のに、一瞬にして、濡れた。人間とは何かが崩れ去ると、いきせきとすべてがどうでもよくなる。「あ〜、もーいいや、濡れろ濡れろと」と一挙にダイナミックな方向に活路を見出すもの。
 豊かで偉大な自然に、体を包み込まれた瞬間であった。(大げさその2)

 ところで、排水が成立する要素とは、私の考えるところ、“浸透・集積・容量”。実際もこんな感じか。雨水の排水設備とは、適当に側溝やマンホールを設けたりするものではなく、法令や条例の定めるところにより、厳密に面積や体積や地形・勾配などによって決められているものだろう。今回のこの現象というか状態は、その三つの何かが足らないとか不適切であるということなのだろうか。
 しかし、この三要素。人間ぽくって面白い。他の意見や環境を自分に浸透させる能力。自分の意見や環境を他に浸透させる能力。様々な情報や色々な思考を集め積む能力。人間としての容量。こんな結びつきができるだろうか。浸透できても自ら集積できなければ意味がないし、そもそも人としての容量が少な過ぎては、何もできないのだろう。三要素のどれか一つが欠けても、人生上手いこと進まないのではないか。溢れ出た水の量は、その人の度量を象徴とし、水質はその人の人格を表現したりするのだろうか。流れ進む水を見ては、周囲の人々がその人に見切りをつける“いざない”になってしまうのだろうか。(ちょっと笑えなくなってきた)

 まあ、いずれにしても、いつもの事ではないので、一時的に自分や誰かが濡れるだけだったら特に気にするような事柄でもない。災いとも言えない些細な憂鬱によって一時的に哀れになるだけの話し。ここは人間のそれとは大きく違うところ。しかし、滝のように溢れ出る水が、下の歩道の植え込みの土を流してしまっているのを見ると、どうにかした方が良いのではないかと思うけれど。